レポートに使えるかもしれない!?『国富論』と『経済表』の比較

経済学
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大学の講義で経済思想に関するレポートが出ました。

僕はフランソワ・ケネーの『経済表』をメインに据え、国富論との類似点が多いことに気づき、両者の類比に関する考察を書くことにしました。期限ぎりぎりにやったので終盤グダグダのつたないところもありますが、同様にレポートを書く際に困っている方などに役立てるかもしれません。

あくまでも筆者の主観が入り混じっていますし、誤ったことを書いている可能性があるということを承知の上、ひとつの”切り口”として参考にしていただけたら、と思います。

経済表の分析の概要

 

国民の3つの階級について

国民は生産階級、地主階級、不生産階級の3階級に分類される。端的に3階級を説明する。生産階級は農業従事者を指す。地主階級は文字通り生産階級からの地代を得る地主である。不生産階級は農業以外のあらゆるサービスや労働に従事する市民全てを指す。

 

1年の再生産額が50億(リーヴル?)の流れについて説明する。

生産階級は生産額50億でありその用途は以下の3通りとなる。

  • 地主への地代:20億
  • 不生産階級への支出:10億
  • 年前払い(燃料費や材料費など流動資本への再投資)

 

以上の様に生産階級を始点として30億が他の階級へ富が渡り、経済の循環がはじまる。

 

生産階級から20億の収入を得た地主の消費は以下のようになる

  • 生産階級への支出:10億
  • 不生産階級への支出:10億

 

生産階級及び地主から10億ずつの収入を得る不生産階級の消費は以下のようになる。

  • 生産階級への支出:20億

 

以上の循環を図示するとこのようになる。

7つの考察について

概して言えば、農業従事者の収入を最大化することに焦点を当て、それに伴う注意点が述べられている。具体的には外国貿易や転売人を通じ輸送量やマージンにより、上図の支出の環に、生産階級に回帰しないコストを出さないようにすること。地主は農業のための支出を増やし、農業の発展を重視すること。外国貿易を自由にして国内生産物を最良価格とすること。などである。第7考察のみは貨幣量についての記述となる。流通は安定しており、取引は信用と完全な自由を伴うの。ゆえに金額の大きなの流通は約束手形が基本である。よって貨幣量は地主への地代額分ありさえすれば十分であるとしている。よって貨幣量の過多は重要ではないことになる。

 

 

国富論との比較、考察

アダム・スミスの『国富論』において、スミスが主張する経済の青写真はケネーが『経済表』で主張したそれと通底するものであったと感じている。ケネーは農産物、ないし農業従事者の所得が利潤の源泉であり経済の起点であると考えた。また、生産量が地主の所得を決定する。対してスミスの主張からは労働者が生んだ付加価値ないし投下労働量が利潤の源泉であり経済の起点であると取れる。また、労働者による投下労働量が資本家の収入を規定する。

整理すればケネーの言うところの生産階級と不生産階級がスミスの主張の中では労働者という役割を担い、地主が資本家という役に置き換わることで役者はそろう。そして、ケネーの言うところの生産物の価値が投下労働量に変われば概ねケネーの主張は再現される。つまり、封建制的在り方が産業革命によって生まれた資本主義的な在り方に変質した。これを背景に、重農主義において農業だけにフォーカスしているがそれを労働という形で一般化し、時代に適応させた形、それがアダム・スミスの唱えた古典派経済学だという見方もできるのではないだろうかと考えた。

貨幣ないし貴金属に対する見方はスミスのほうが深い考察なのだろうか。しかし類似していると思う。ケネーは生産階級の地代分だけあれば十分と、保有量に重要性はないとした。スミスは投下量同僚により万物の価値を決定すべきと考えていた。(ただし、それを実現した価値交換手段を考えていたかは不明)ケネーは貨幣に変わる交換手段を考えていたかもしれないが述べてはいない。どちらにせよ重商主義においてアキレスの踵にあたる価格革命のような事態にある程度対策がとれているように思う。

特別不思議なことではないのかもしれない。とはいえ、両者の著作の一片を比べたに過ぎないが、以上の様にフランソワ・ケネーとアダム・スミスという二人の主張を比べてみると類似点が多いように感じた。産業革命を背景にしたアップデート版とか経済表ver2.0というような関係性に思えたというのが考察の結果である。

 

 

参考文献

 

『スミス蓄積論と重農主義的観念』羽鳥卓也

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